玉電廃止から50年 思い出を集めた資料館「あの時代に戻れないかな」

三軒茶屋(撮影・大塚勝利/吉野太一郎)

東急田園都市線の渋谷~二子玉川間は、50年前まで「東急玉川線」という路面電車でした。1969年5月10日に廃止されてから、今年でちょうど50年。

「玉電」の愛称で親しまれ、国道246号をトコトコ走っていた緑の電車は、50年たった今も、覚えている人にも、知らない人にも、根強い人気があります。その「玉電萌え」の聖地を東京・二子玉川に訪ねました。

そもそも玉電って何?

渋谷と現在の二子玉川の間を走っていた路面電車「玉川電気鉄道」は、1917年に順次開業しました。のちに東急に合併されて「東急玉川線」となりましたが、1969年に廃止され、8年後に地下を走る「東急新玉川線」となりました。現在は改称して田園都市線の一部になっています。
支線だった「下高井戸線」は、道路併用軌道が少なかったことなどから廃止を逃れ、「世田谷線」と改称されて今に至ります。

砧線跡地の遊歩道。柵には電車の絵が(撮影・吉野太一郎)

玉電とともにあった人生

終着駅だった現・二子玉川駅前。ブランドショップが並ぶ玉川高島屋S・Cのオサレな一角をくぐり抜けて、まっすぐな遊歩道を歩きます。ここは昔、玉川線の支線・砧線の線路が通っていた跡です。

世田谷区玉川3丁目にある「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」(撮影・吉野太一郎)

その近くに、一風変わった建物があります。「玉電萌え」の拠点とも言うべき、「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」。館長の大塚勝利さん(76)は2011年まで、ここでおそば屋さんを開いていました。

大塚勝利さん(撮影・吉野太一郎)

店をやっていた頃から、店内には旧車両の運転台があったり、行き先表示板があったり、東急の制服があったり。「東急のOBの人とかがさ、寄贈してくれるんだよ」。自身や家族の体調を理由に資料館に模様替えしてからは、当時を知る人や、ノスタルジックな世界に魅せられた若い人が訪ねてきます。

資料館には旧玉電車両の運転台も(撮影・吉野太一郎)

瀬田電停の近くで生まれ育ち、三軒茶屋のそば店で修行した大塚さんは、1970年に二子玉川で独立開業。まさに人生は玉電とともにありました。当時は路面電車が撤去されて高速道路が建設され、田園地帯が住宅地にどんどん変わっていく頃でした。

「なじんだ風景を記録しておこう」と、独立前から当時高価だったカメラを月賦で買い、廃止が決まった玉電と、変わりゆく町並みにシャッターを切っていました。

「あの時代に戻れないかな」

大塚勝利さん(撮影・吉野太一郎)

資料館にあるのは玉電関係の物だけではありません。白黒テレビ、赤い公衆電話、カセットテープなど、懐かしい昭和の品もたくさん。「ビデオデッキから先はもう、ついていけないんだ。パソコンとか使えないし、インターネットも無理なんだよ」

そんな大塚さんは「50年って、本当にあっという間だよな。こんなに変わるとは思わなかったよ」と、しみじみと振り返ります。

1966年10月、東京・青山通りを走る都電(1966年10月27日付朝日新聞朝刊より)

玉電が廃止された50年前は、モータリゼーションの波が全国に押し寄せていた時期でした。自動車の急増で交通渋滞が深刻化し、路面電車は道路交通の邪魔になる悪役とみなされ、次々と地下鉄に置き換わっていったのです。

「あの時代に戻れないかなって、時々思うんだ。今はあくせく、先ばかり急いでいる世の中じゃないか。そんなにあせらなくても、もっとゆっくり行っていいんじゃないかな」

三軒茶屋(撮影・大塚勝利/吉野太一郎)

国道246号の上を覆う首都高速もなかった時代。今はどう変わったのでしょうか。大塚さんが50年前に写した場所に立って、50年の歳月を比べてみました。(画像の続きは後編で)

【後編】三軒茶屋・桜新町・二子玉川…玉電廃止から50年、街はこんなに変わった(画像集)

     ◇

「大勝庵 玉電と郷土の歴史館」(電話080-1227-6158)は、原則として火・木・土・日の午前10時から午後3時まで開館。臨時休館もあるので、訪問前に電話で問い合わせを。

4月27日から5月6日まで、三軒茶屋・キャロットタワー3階の「生活工房ギャラリー」で開催される「祝・世田谷線50周年 世田谷線にのって展」にも、大塚さんのコレクションの一部が展示されます。

 

TAGS

この記事をシェア