アーバンパークラインはもともと「しょうゆ鉄道」だった…東武野田線の過去と未来

高架化工事が進む野田線野田市駅の踏切

「東武アーバンパークライン」という愛称で親しまれている東武野田線。埼玉県の大宮駅から千葉県の船橋駅まで、東京都心から30㎞ほど離れた周辺地域を弧を描くようにつないでいます。

路線長は62.7キロ。私鉄としては非常に長く、西武池袋線(池袋~吾野間57.8km)や京急電鉄本線(泉岳寺~浦賀間56.7km)を上回り、京成電鉄本線(京成上野~成田空港69.3km)に迫ります。

大宮~船橋間を走る東武野田線

路線名の由来となったのは、千葉県野田市の野田市駅。大宮~船橋間のおおよそ中間にあります。ところが、東武野田線の利用者のほとんどはこの駅を利用せず、存在も意識していません。ついには「東武アーバンパークライン」という奇妙な愛称が付いて、野田線の名前は表舞台から消えようとしています。

しかし歴史を紐解くと、東武野田線はその名の通り、野田のために作られた路線だったことがわかります。

しょうゆの一大供給地「野田」

千葉県野田市のキッコーマン野田工場

日本一の醤油生産地である千葉県は、全国の醤油生産量の3分の1以上を占めます。そんな千葉県の中でも、特に醤油の町として有名なのが野田です。世界的ブランドに成長したキッコーマンの歴史は、17世紀に野田で醤油づくりを始めた茂木家と高梨家から始まりました。

物流のほとんどを船が担っていた江戸時代、野田は利根川と江戸川に面する水運の拠点でした。大豆と小麦は北関東の穀倉地帯から、江戸湾で採れた塩は行徳経由で運び込み、潤沢な水と温暖な気候を活かしてしょうゆを醸造しました。こうしてできた醤油は水運で江戸市中に出荷され、野田は醤油の一大供給地に成長したのです。

野田線のルーツとは

貨物駅の跡地はトラック輸送の基地として使われている

明治に入って醤油の需要が伸びると、水運での輸送を強化するため、1900年に醤油工場と江戸川の船着き場を結ぶ「野田人車鉄道」が開業しました。これは道路に敷いたレール上のトロッコを人間が押す人力鉄道で、ひとつのトロッコで醤油樽70樽(2トン)を運んだそうです。

「野田人車鉄道」の資料写真(提供・キッコーマン株式会社)

しかし次第に水運では輸送が追い付かなくなり、野田の醤油組合は、千葉県に醤油を輸送する鉄道の建設を要望します。県は醤油組合の資金協力を得て、1911年に野田と柏を結ぶ「千葉県営鉄道」を開業、これが東武野田線のルーツになるのです。

県営鉄道野田線はその後、柏~船橋間を営業する北総鉄道(現在の北総線とは別)に払い下げられ、野田から春日部・大宮方面の延伸に着手、1929年に総武鉄道に改称しました。その資金の多くは野田醤油(現在のキッコーマン)が負担しています。

変わり始める野田線

宅地開発が進む清水公園駅付近では高架線も形になりつつある

その後、総武鉄道は1944年に東武鉄道と合併して、東武野田線が誕生します。高度成長期以降はトラック輸送が年々拡大し、1985年に野田線の貨物輸送は終了。野田市駅の醤油工場につながる引き込み線も撤去されました。

それから30年以上が経過し、野田線の風景は大きく変わろうとしています。千葉県と野田市は市内の清水公園駅から梅郷駅までの約3キロメートルの区間を高架化して、踏切を撤去する「連続立体交差事業」に着手しました。2023年の完成に向けて工事が進んでいます。

東武鉄道はいま、清水公園駅周辺を「ソライエ清水公園アーバンパークライン」として開発し、特急列車「アーバンパークライナー」を乗り入れさせるなど、路線イメージを刷新しようと躍起です。しょうゆの運搬をきっかけに一時代を築いた野田線がどのように変化していくのか、今後の動きにも注目していきたいと思います。

 

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