病院のストレッチャーの上で「たったひとり」を楽しむ

病院のストレッチャーの上で「たったひとり」を楽しむ
病院は「ひとりを楽しむ力」を試される場だ

昨年の夏から、狭心症の発作に悩まされている。みぞおちから左胸にかけて鈍痛があり、夜中に息苦しくて飛び起きたりすることもあったが、最初は何が起こっているのか分からなかった。

それが昨秋の健康診断の最中に、息苦しさと激痛で脂汗が出て、慌てて看護師さんを呼んだ。症状は10分ほどでおさまったが、残りの検査を終えた後に医師に話したところ、狭心症の発作のおそれが高いと指摘された。

健診では心電図も測ったが、異常はなかった。発作が出ている最中に取らないとダメなのだという。悩まされ始めていた肩や歯の痛みも、狭心症の刺激が思わぬところに出る「放散痛」と考えられるのだそうだ。

何もできない状態をどうやり過ごすか

その後、総合病院で24時間心電図計をつけるなどの検査を受けたが、異常は検出されなかった。しかし症状をメモして医師に伝えると、やはり狭心症の疑いが拭えないという。眼の前に見えるのに触れることのできない蜃気楼のようだ。

実に気味が悪い。途方に暮れる本人をよそに、医師は造影剤を使った冠動脈CTを勧めた。検査自体は短いものだが、その前に心拍数を落とす点滴を数時間受けなければならない。

大きなストレッチャーに寝かされ、電子音とともに心拍数や血圧が計測される機械をつけられた。管や線が両手に何本もつながり、スマホを見ることすらままならない。その状態で、ふとDANROの「ひとりを楽しむ」について思いを巡らせた。

コンサート会場にひとり赴く行為は、本当は「ひとりを楽しむ」とは言えないのではないか。すぐそばにたくさんのファンがいるし、群衆に紛れて一体感を味わい、孤独を紛らわすといった方が正確だ。

一方、ストレッチャーに縛り付けられて身動きできないまま、何もせずにやりすごさざるをえないとき、人は本当の「ひとりを楽しむ」力を問われる。これは老後の予行演習のようなものかもしれない。さて、どうしたものか。

世界はそのままで美しい

氏家コラム狭心症_1
人生には目的と呼べるものはない

まずは、ちょっとした思考実験を試みた。もしも体調が悪化してハードな仕事に耐えられなくなったら、会社をやめざるを得なくなるだろう。とはいえ、すぐに死ぬわけではない。残りの時間、どうやって生き延びていけばいいのだろうか。

沿線の大学で、編集の講師でもできたら楽しそうだ。話すネタはあるが、何か教科書のようなものがあった方がいい。そういえば、むかし小さな出版社から『編集入門』という本を出さないかという話があった。紙とネットの両方の話を書けというのだ。

あの企画はまだ生きているのだろうか。もしいま書くとしたら、どんな話になるのだろう。若い頃なら、売れる本の作り方やウケる記事の書き方なんてアイデアが出てきたものだ。しかし最近は、そのあたりにトンと興味がなくなった。

考えれば考えるほど、人生には意味がないのである。少なくとも目的と呼べるようなものはない。あるのは個人のちっぽけな、わずらわしい欲のようなものだけだ。それもなくなってしまえば現実とのギャップはなくなり、悩みも問題も消えていく。

人は、父と母の行為によって、何かの手段ではなくそれ自体が目的である存在として誕生した。私たちを序列化しているように見える浮世のさまざまな基準は、つかの間の幻想でしかない。世界は、そのままで美しい。そこに「編集」なんて小細工は必要ないのだ――。

「脳内再生」は最高のひまつぶし

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第四楽章(Chicago Youth Symphony OrchestrasのYouTubeチャンネルより)

老後の構想が頓挫したところで、看護師さんが脈拍を確認しに来た。点滴はあと30分ほどかかるという。ちょうどチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の第3楽章と第4楽章を「脳内再生」するくらいの時間だろうか。

矛盾するようだが、天才の創作が存在しない世界はやはり味気ない。傑作は世界を美しく彩り、孤独を癒やし、格好の暇つぶしの相手となってくれる。作曲家は53歳でこの曲を書き上げ、初演直後に急逝した。その年齢は、自分のすぐ手の届くところまで迫っている。

3楽章の弦楽器と木管楽器の掛け合いが、頭の中で小さく鳴り始めた。ところどころ記憶があやふやになり、同じところを何度も繰り返した気もするが、止めずに押し切ってみる。金管楽器が輝かしいファンファーレを奏で、シンバルが勢いよく音を立てる。

栄光に満ちた勇ましい行進曲が終わると、一転してロ短調の悲痛なメロディが始まる。薄暗い音楽が綿々と続くが、いつしか明るいニ長調に変わり、雲間から光が差してくる。音は高みを目指して螺旋階段をのぼり、頭の中をオーケストラの轟音が鳴り響いている。

しかしそれもいつまでも続かず、落下するようにして断ち切られる。そして静かに銅鑼が鳴り、音楽は消え入るように終わってしまった。カーテンの向こうで世間話をしながら「点滴そろそろいいかしら」と話す看護師さんたちは、そのことを知る由もない。

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