思い上がった若造がカジノの本場「ラスベガス」で受けた強烈な洗礼

カジノの本場・ラスベガス(Photo by Getty Images)

世界のカジノをめぐるぼくの旅。前回のコラムまでアメリカ東海岸にあるアトランティックシティの話をしてきたが、アメリカのカジノといえば何といってもラスベガスである。

ヨーロッパの重厚な貴族的カジノに対し、庶民が気軽に遊べる大衆カジノを確立したのがラスベガスだ。

孫正義氏が背中を押した日本人の「ラスベガス進出」

現在のラスベガスには、日本人ビジネスマンが頻繁に訪れるようになった。エレクトロニクスなどの見本市へ参加するためだ。

きっかけとなったのは1995年にソフトバンクの孫正義社長が電子機器コンベンション「コムデックス」に8億ドルの資本参加をしたことだ。

その後、孫氏は撤退したが、彼によりラスベガスの見本市が日本企業に知られることとなり、2000年前後から日本人ビジネスマンにとって定番の出張先となった。

ぼくがラスベガスに行き始めたのは、それを遡る1990年代初めで、ビジネス客はまだ少なく、純粋なカジノ客が大半だった。

当時のラスベガスには1泊1000円台で泊まれるホテルがたくさんあった。通りを歩くと、隣合うホテルが看板を出して安さ競争をしていたし、時間帯で値段が違うなど、ホテル選びもギャンブルだった。

ラスベガスの街の風景

現在、宿泊費の相場が1万円か2万円であることからは想像もできないような安さだが、その理由は明快だ。高い宿泊費を取ってカジノの賭け金をケチられるより、ホテルを格安にしてサイフのヒモを緩めさせるほうが、結果的に全体の収益があがるからだ。

1990年代の初めというのは、そんな時代が終わりかけた頃だった。

カジノの本場・ラスベガスに乗り込んでみたが・・・

当時のぼくは社会人になりたてで、ギャンブルといえば、競馬のほか、ベルリッツや神田外語学院で働くアメリカやイギリス出身の外国人教師たちの家で週末にポーカーのまねごとをする程度。

そんな経験しかないにもかかわらず、それなりにやれるのではないかという勘違いのもと、ボーナスを握りしめてラスベガスに乗り込んだ。

ところが、結果は悲惨だった。

心得があるはずのポーカーでは、本場の相手に手も足も出ない。コップ一杯の相手にバケツ一杯の水で戦いを挑むと、相手は更にプール一杯の水で対抗してくるような世界だった。

ブラックジャックでも、ベーシックストラテジー(ブラックジャックの基本戦略=定石のようなもの)通りに判断できない。

猛者に叩きのめされながら、「戦い方を知識として知っている」ということと「身をもって実際に戦う」ということがいかに違うかを、ぼくは思い知らされた。

出発時に抱いていた夢は容赦なく打ち砕かれ、行く先々で負け、持参したボーナスもあっという間に底をついた。

ポーカーはカジノの代表的なゲーム(Photo by Getty Images)

思い上がった若造に対するラスベガスの洗礼だった。

全てにおいてぼくは未熟だった。すっかり観念し、もうカジノはやめようと思った。

ホテルのスロットが変えた「ぼくの運命」

最後の日、通りをとぼとぼ歩いてホテルに戻り、部屋に向かうエレベーターを待っていた時だった。古いスロットマシンが目に入った。3ドル入れて回し、マークが3つ揃えば当たりという、今はなき簡単な機械式スロットだった。

現代のスロットは半導体による電子制御で、当たりハズレは経営者によってコントロールされてしまっているが、昔のスロットは純粋な確率で当たる機械仕掛けのマシンだった。

そんな昔のスロットが懐かしく、ラスベガスを発つ前に一度やってみようと思った。これを最後に、もう二度とカジノをするのはやめようと思った。

スロットにお金を入れてボタンを押した。のどかなメロディとともにドラムが回って止まった。それを2~3回繰り返した時だった。左から順にさくらんぼのマークが3つ揃って停止したかと思うと、派手なファンファーレが鳴り出した。

まさかの大当たりだった。

3つ揃ったマークを見ているうちに、なぜか涙がこぼれてきた。

大敗し、絶望して帰るはずだったぼくに、ラスベガスがもう一度希望を与えてくれたような気がした。

配当金を払うため飛んできたキャッシャーが、ぼくを見て「なんで泣いているんだ?」と言った。

彼は一緒に大当たりの記念写真を撮ってくれた。

スロットで起死回生の大当たり

二度とカジノをしないというぼくの決意は、この当たりによって撤回された。

それがぼくの人生にとってよかったのかどうかまだ結論は出ていないが、こうしてぼくはラスベガスのとりこになっていった。

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