寒空の下、「センセイの湯豆腐」で温まる

湯豆腐も手を抜かなければごちそうに

一月三日。実家から戻った足で、自宅近くのスーパーに走った。どうしても湯豆腐が食べたくなったのである。それも、川上弘美の小説「センセイの鞄」に出てくる湯豆腐だ。作中、それはこんなふうに書かれていた。

「センセイの家で、湯豆腐を食べていたときのことである。昼間っから、アルマイトの鍋でセンセイがつくってくれた湯豆腐をさかなに、ビールを飲んでいた。鱈も春菊も入っている湯豆腐だった」

新年に再読する本を大晦日に選ぶ

実家は職場から1時間半の郊外にあり、帰省というほどの大事ではない。ふだん親孝行をしないので、長男の私だけでも老親と年越しすることにしているだけだ。

気がかりなのは暇つぶしの方法で、念のため大晦日に古本屋に立ち寄ることにした。階段の昇り口には「100円コーナー」の棚があり、古今東西の名作が並んでいる。

若いころに愛読し、引っ越しのたびに泣く泣く処分した本が安価で売られていて驚く。カゴはたちまち一杯になったが、とても持ち運べそうにない。迷った末、2019年中に再読できそうな8冊に絞り込んだ。

・シェイクスピア「マクベス」108円(税込み)

・チェーホフ「かもめ」108円(税込み)

・沢木耕太郎「テロルの決算」108円(税込み)

・向田邦子「思い出トランプ」108円(税込み)

・川上弘美「センセイの鞄」108円(税込み)

・小川洋子「博士の愛した数式」108円(税込み)

・村上龍「心はあなたのもとに」108円(税込み)

・吉田修一「さよなら渓谷」108円(税込み)

しめて864円也(税込み)。お会計を聞きながら、人気ラーメン店のガラス越しに見た男女の姿を思い出した。向かい合って座る若いカップル。右手で麺を手繰りながら、ふたりとも左手のスマホから目を離そうとしない。

880円のラーメンに行列ができても、本にカネをかける人は減った。無料のニュースアプリで読めるのだから当然だろう。そして「かもめ」は108円でも売れ残る。チェーホフで、腹は膨れない。

いつの間にか「センセイ」の年齢に

家の屋上で熱燗と湯豆腐を試みる

だが、その日の自分には、それがどうにも腑に落ちなかった。そこで本の価値を擁護するために、昼飯を抜くことに決めた。やはり「腹が減ってもチェーホフ」である。

京葉線でビニール袋を探ると、「センセイの鞄」が出てきた。久しぶりに開いたその本は、初めて読んだときのように新鮮だった。記憶は「キノコ狩」のあたりから戻ってきた。実家でも寝る前に数ページずつ読み進め、帰りの電車で「湯豆腐」のくだりになった。

思い出が鮮烈に蘇った。目頭が熱くなり、そこから先は読み進める気になれなかった。前回読んだときには、ツキコさんと同じくらいの年齢だった。それがいつの間にか、見かけも中身もセンセイのようになっている。

「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」

そんなセリフが、まさか自分の身に迫ってくるとは思わなかった。急に「センセイの湯豆腐」を真似たくなった。三が日に材料は揃うだろうか。駆け込んだ野菜売り場に、幸い春菊がひと束残っていた。

おひとりさま用のアルマイトの鍋に、手でちぎった春菊と、鱈の切り落としに木綿豆腐、水と出汁の素を入れコンロの火にかけた。バザーで買ったチーズフォンデュ用の五徳に固形燃料を入れ、屋上で点火して煮立った鍋を載せた。

「常識」の中に見過ごされたものがある

家の屋上で熱燗と湯豆腐を試みる

日本酒は会津の「末廣」の純米酒だ。冷やだと米の香りが立つ繊細な飲み口が、熱燗にするとまろやかでたくましく変わる。小ねぎをポン酢で和えて、熱々の豆腐に乗せて口に運ぶ。ひとパック198円の豆腐が、春菊とあいまって大化けしている。ポン酢をすき焼きの割り下に変えてみるのもいい。

シンプルだが、何とも味わい深い。プリプリの鱈から出た甘い出汁が春菊のほのかな苦味と実にあう。そこに熱々の熱燗を流し込む。身体がカーッとあたたまる。昔の人は、こんな組み合わせをよく考えたものだ。「普通」や「常識」の中にも、見過ごされたものがある。

ふだんは豆腐を電子レンジにかけて、湯豆腐風にして食べることはあるが、やはり「センセイ」風に手をかけると満足度がまるで違う。川上弘美も、こう書いていた。

「(センセイがつくるのは)鱈も春菊も入っている湯豆腐だった。わたしのつくる湯豆腐は、豆腐だけである。こうやって人間どうしが馴染んでいくのだな、などと昼酒でぼんやりした頭で思っていた」

人間どうしが馴染んでいく、という表現もいいが、その媒介に湯豆腐を使ったのは実にリアルで、いかに絶妙であるかをあらためて感じた。

しかし、いかんせん極寒の下では熱燗も急速に冷めてしまい、強風で固形燃料の火も消えてしまった。しかたなく屋内に戻り、鍋の材料を少しずつ補充するうちに、豆腐も鱈も春菊も食べ尽くしてしまった。最後は春菊の太い茎をかじりながら、酒に煮汁を混ぜて飲んだ。

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