東京の「色街」跡でアコウダイの煮付けを食う

白山に色街があったことを知る人はもはや少ない

十一月の半ば、仕事を終えて帰宅しながら、ふと思い立って途中下車した。通っていた床屋がいまどうなっているのか、久しぶりに見に行きたくなったのだ。

都営三田線の春日駅から、十二年ほど住んだ西片のマンションの脇を抜けて、本郷台地と白山通りに挟まれた細い路地を歩く。二年前に閉じた店は看板が外され、凝った内装も取り壊されてコンクリートの壁がむき出しになっていた。

矢沢好きのべらんめえマスターがいた

「リトローザ」は、足掛け十五年は通っていたお気に入りの床屋だった。職人気質のマスターは下町生まれのべらんめえで、大きなバイクに乗っていた。店ではいつも矢沢永吉をかけていて、バイク乗りのお客もよく立ち寄っていた。

でも自分が店に行くと、マスターは矢沢をチャイコフスキーかなんかに替え、口調も物静かになった。「矢沢かけてよ」と言うと、俺の本当の地はこっちなんすよ、と笑った。どこか育ちのよさを感じさせ、洒落た色気のあるサービス精神の旺盛な人だった。

歳はちょうど十個上で、修業時代は播磨坂(はりまざか)の上のアパートに住んでいたらしい。「東京の桜では播磨坂が一番好きですよ」と言うと、マスターも、あそこは本当にいいよね、と懐かしそうに振り返った。

新規事業や転職などで悩んでいるとき、「リトローザ」に行ってカットしてもらうと頭がすっきりした。意見をもらおうと相談を持ちかけても、マスターは「もう答えは出てるんでしょう」としか言わず、静かに話を聴くだけだった。

閉店直後のリトローザ。ここでしか髪を切りたくない人も多くいた

二年前の四月、店に行くとマスターは今までで一番清々しい顔をしていた。長女が司法試験に合格して司法修習に入り、次女も国家資格をとって就職を決めたという話だった。次女とお祝いのデートをしたら、「パパは私にとって最高のオトコ」とか色っぽいことを言われたと自慢し、目尻を下げていた。

そしてこの春から心機一転、第二の人生を歩むと宣言した。歳は五十七、八の還暦前。西片に住む常連の財界人に「お前の代わりはいないんだから、身体だけは大事にしてくれ」と言われ、昼休みを長めに取ることを決めたと聞き、大賛成した。

「ヒゲは次回、余計に剃りますんで……」

しかしその言葉に反し、それから店は大変なことになった。その年のGWは十連休を取る人に加え、前後にずらす人もいて、飯も食わずに一人でカットする日々が何週間も続いたらしい。ベテランのマスターが「初めて店に行くのが怖くなった」と言った。

六月に店に行くと、マスターは信じられないほど痩せて骨と皮だけになっていた。病院で「腸炎」と診断され、医者からは入院を勧められたが、復帰に時間がかかると嫌なので断ったという。

しかし体力の衰えはひどく、髪を切るのも一回一分と続かず、毎回三分から五分の休憩を要した。ほとんど出ないというトイレにもたびたび入った。それでも何度も立ち上がって切ってくれたが、ヒゲを剃る余力はなかった。「ヒゲは次回、余計に剃りますんで……」というジョークも消え入るようだった。

途中でふたり客が来たが、「今日はもう」と言って断った。そして小声で、最近は周囲に立派なマンションが増えて金持ちそうなお客が増えたけど、みんなおんなじような顔をしやがって、といつもの悪態をついた。

そして、元気になったら食べに行きたい店を毎日スマホでチェックしているという前向きな話もしたが、終わりがけには力なく「悔しいです」とつぶやいた。

あのとき、なぜ救急車を呼ばなかったのだろうか。後から考えると不思議だが、マスターが自分で生きたいようにやっていると感じたからだと思う。ただ、その場で入院が決まってもおかしくない状態だったし、呼んでもよかった。

八月に店に行くと、中の電気は消えて「お客様へ 永きにわたりありがとうございました。閉店致します」と張り紙があった。ネットを検索すると、マスターが急逝したと書き込みがあった。もしかすると、最後の客は自分だったのかもしれない。そう考えると代わりの店を探す気にもなれず、しばらく髪が伸びたままになった。

「検番跡」は割烹になっていた

白山下商店街に残る飲み屋は少なくなった

今は亡き吉田健一の「東京の昔」(1974年)という小説に、こんな記述がある。

「どうもそのバーが神楽坂にあったのではないかと思うのはそこを出て勘さんと行った待合の周囲が今になって頭に浮かんで来て当時の白山の色街ではその地形が合わないからである。勿論その神楽坂も戦争で焼ける前の当時のものである。」

ここに出て来る戦前の「白山の色街」(芸者遊びのできる一角)の名残が、「リトローザ」の裏手に広がっていた。久しぶりに散策してみると、以前はいくつかあった趣のある二階建ての大きな日本家屋や板塀は、ほとんどが真新しいアパートに建て替わっていた。

それでも足元の白い石畳はところどころに残っており、それを見るとホッとした。時は移り、人も街も変わっては消えていく。だから生きている人間は、それが生きているうちにちゃんと向き合って味わわなければ、という気持ちになった。

マスターを知っている人がいるような気がして、近くの割烹ののれんをくぐった。「酒処ありあけ」には、八十歳をすぎた店主夫婦がふたりカウンターで話し込んでいた。何かあるものでと言うと、炒った野菜のお通しと、たっぷりのおでん、それに烏龍ハイを出してくれた。

訊くと店が四十年前に建つ以前、その土地には検番(けんばん)があったのだという。検番とは芸者を登録させて、お客の求めに応じて手配する事務所で、二階からは芸者たちが三味線を稽古する音が聴こえたそうだ。

店主は足のケガで入院していて、ちょうど退院して店に出たところだった。昨日だったらいなかったと聞き、やはり思いつきの途中下車は正しかったと思った。

秋のアコウダイの煮付けは絶品

アコウダイの煮付けと烏龍ハイ。寒くなると魚に脂が乗ってくる

店主に「リトローザ」のマスターを知っているかと聞くと、彼はこの店にも来たことがあるという。そして、旧色街に古いアパートを借りていて、そこで亡くなったらしいと教えてくれた。昼休みをたっぷり取るために借りたのだろうか。初めてマスターの死が、現実のものとして心に迫ってきた。

何か魚はありませんかと訊くと、アコウダイの煮付けがあるという。冬の産卵期前のこの魚は絶品だ。甘じょっぱい煮魚は脂が乗っていてとてもおいしく、マスターにも食べさせたかったと思った。女将さんは、うちは魚が自慢なんですよと言った。

お会計をしてもらうと驚くほどリーズナブルな値段で、僕は必ずまた来ますと約束して帰った。白山下の話で聞きたいことは、まだあったからだ。

店を出ると、マグロの大きな頭がいつも店先にあった角の魚屋さんがなくなっていた。商店街を歩く人はひとりもいない。この街の灯も、いつか消えるのだろうか。マスターの悪態を思い出しながら旧色街の周りを回り、ここに生きて亡くなった人たちの冥福を祈って帰路についた。

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