「女性はみんなサプライズが好き」という風潮、おかしくないですか?~「ぼっちの恋愛観」

その場では断りづらい「指輪パカッ」(イラスト・古本有美)

あんまり言わないようにしていたけれど、やっぱり言う。私はサプライズが苦手だ。「女性はみんなサプライズが好きなんでしょう」と当たり前に思われているこの現実を、正していかなければならない。そういうところから世直しをしていきたい。

善意の塊は、時に人を追い詰める

私は、サプライズというのは実際よりも過大評価されているのではないかとニラんでいる。なぜならば、「サプライズが苦手」という意志は、非常に表に出づらいからだ。「セロリが苦手です」と言うのとはワケが違う。本当は苦手でも、みんな言えずに「サプライズ好き」な人数として数えられているケースは思っている以上に多いのではないだろうか。だって、なまじ祝ってくれている以上、祝い方に文句をつけるわけにはいかないではないか。

それに、一般的にポジティブとされていることって、基本的に否定しにくいのだ。ポジティブ is ハッピーであり、ハッピー is ポジティブだ。でも、サプライズ is 絶対的なハッピーなのか? と言われたら、必ずしもそうではない。ノー・モア・サプライズな人にとって、サプライズというのは「結婚したいと一言も言ってないのに見合い写真を持ってくる親戚のおばちゃん」だ。「結婚=絶対的なハッピー」と信じて疑わないおばちゃん。善意の塊って、ときに人を逃げ場なく追い詰める。

そういうわけで、私自身もこれまでサプライズが苦手なことは心に秘めて生きてきた。「時間をかけてサプライズを用意してくれたその気持ちがありがたくないのか?」と言われたら、もうぐうの音も出ないからである。ありがたい。大変ありがたい、けれど、それ以上に受け入れがたい点が多すぎる。

サプライズの構造的問題

まず、サプライズというのは、構造的に大きな問題を抱えている。サプライズには、「盛大に喜ぶ」という反応しか選択肢が用意されていないのである。「喜ばない」は言うまでもなく、「喜ぶ」や「小さく喜ぶ」、「顔には出ていないけれど喜んでいる」もダメ。

サプライズの盛り上がっている感じに対して、釣り合った反応を取れないと不相応な申し訳なさが残る。表情豊かに盛大に喜び、目を潤ませている、が模範解答。潤んだ瞳から一筋の涙でもこぼれ落ちれば完璧だ。そこに反応の自由はない。

だからたぶん、多くの人はサプライズに対して普段よりも割増しで喜びの反応を“見せている”はずだ。そのせいで、「女性はみんなサプライズが好き」という超理論が語り継がれ、恋愛といえばサプライズ、みたくなっている。そうじゃない。たとえ微妙だと思っても、グッとこらえていることもきっとある。

サプライズは「喜び」ではなく「戸惑い」

思うに、本来サプライズは、「“相手が欲しいと思っているもの”を内緒で用意する」というのが本質であるはずだ。ニンテンドーSwitchを欲しいと思っている人に対して、内緒で買っておいて突然プレゼントすることで嬉しさが増す、というように。つまり、喜ぶものありきの話であり、驚きのほうはあくまでもオマケ。提供するプレゼントは、サプライズしなかったとしても充分喜んでもらえるものであるべきだ。

ところが、世のサプライズの多くは、「内緒で何かをする」という部分のみが独り歩きしているように思えてならない。サプライズという言葉もよくないのかもしれない。「サプライズ=驚き」といった言葉の意味に忠実に、みんな驚かせたがりすぎではないだろうか。喜び、という本質をよそに。世間一般でサプライズとして行われる定番は、「突然暗くなってケーキが出てくる」、「店員さんがケーキを運ぶ間、友人及び居合わせた見知らぬ人たちが一緒になって手拍子しながら歌う」、「突然花束を渡される」、「トイレに行っている間に照明が落ちてキャンドルが並び、指輪の箱をパカッとされる」、こんなところだろうか。

よほど見知らぬ人に歌ってもらうのが好きだったり、花束や指輪を喉から手が出るほど欲しかったりしない限り、これらはいずれも、「喜び」はおろか、「驚き」ですらなく、「戸惑い」の感情に近いと思うのだ。

店じゅうが自分に注目し、ほかのお客さんの会話を中断させ、見ず知らずの人に「ハッピーバースデー」を歌わせてしまう、これだけでも相当な苦行である。申し訳ないことこの上ない。どこの馬の骨とも分からぬわたくしめのために……、と肩を丸めて歌が終わるのを待つ。歌の終盤、「ハッピバースデー ディーア ○○さーん」の部分に差し掛かると、ほかのテーブルのお客さんは当然こちらの名前を知らないため、モニョモニョとそこだけ誤魔化すことになる。つくづく何なんだろう、この儀式は。

指輪パカッのサプライズプロポーズにしてもだ。感動の代名詞のように言われているが、指輪パカッされた側からしたら、もし断りたくても、その場では断りづらいのではなかろうか。やはり、ここにも先に述べたように「反応の自由」がないのである。2、3日たってから、「あの……、やっぱり……」とおずおず断りに行くのだろうか。

「勝手に演者にしてくれるな!」

このように、本心では戸惑っていたとしてもその戸惑いをひた隠しにし、時に笑い、時に涙し、感動したリアクションを見せなければならない不自由さがサプライズにはある。また、喜怒哀楽の表現に乏しい私の場合は、たとえ喜ぶようなものをプレゼントされたとしても、「大仰に喜ばなければならないプレッシャー」に押しつぶされて、やっぱり戸惑う。

サプライズとは、本来受け身で祝われるはずの受け手側をも強制的に“演者”にさせるシステムなのだ。受けた側の感激の表情、涙、そういうもの込みで完成するようなところがある。それも、大喜びしていると正解、あまり喜びを表現できていないと不正解。誰かが言ったわけではないけれど、なんとなくの暗黙の了解がある。

サプライズだけじゃない。世の中のスタンダードな恋愛観は、全部そうだ。正解の服装、正解のメイク、正解の仕草、正解の趣味、そして、サプライズにおける正解の反応。目指せと言わんばかりの暗黙の了解が多すぎる。この筋書きで踊れ、筋書き通りに踊れた者だけが恋愛強者になれる、と。

そんなのお断りだ。勝手に“演者”にしてくれるな。

でも……、まあ、サプライズひとつでぐちぐち言わないほうが、生きる上では得なのかもしれないとは薄っすら思っている。だけど私は、そういう自分が結構好きだ。ポジティブ is ハッピー。

TAGS

この記事をシェア