かつては海が目の前にあった「品川駅」 失われつつある潮風の記憶

かつては海が目の前にあった「品川駅」 失われつつある潮風の記憶
品川を通る東海道線のほとんどは上野東京ラインとして運転される

かつては車窓から海が見えた品川

窓より近く品川の 台場も見えて波白く 海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州かーー。

1900年(明治33年)に発表された「鉄道唱歌」の一節です。 鉄道唱歌の第1集東海道編は、新橋から神戸まで66番も続きますが、そのうち品川が登場するのは3番で、車窓から見える海や山の景色について歌われています。

このメロディーを聴くことができるのはJR品川駅。東海道線ホームでは、鉄道開業130周年を迎えた2002年から、発車メロディーに「鉄道唱歌」が使われています。

日本初の鉄道は、1872年10月14日、新橋~横浜間で開業しました。これにちなんで10月14日は「鉄道の日」に制定されていますが、実はその4か月前に、品川~横浜間で仮開業していたことはあまり知られていません。品川は日本の鉄道発祥の地だったのです。

海の上を走った東海道線

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高輪口前を通る国道15号線。これより向こう側は全て海だった

現在は品川の車窓から海の気配を感じることはできませんが、「鉄道唱歌」が発表された頃の海岸線はいまより2キロメートルも内陸側にあり、品川駅のすぐ脇まで東京湾が迫っていました。

それどころか鉄道開業当時、品川駅から新橋駅手前まで約3キロメートル弱の区間の線路は、東京湾の海の上を走っていたのです。海の上に線路を敷設したのには理由があります。

今では文明開化の象徴とされる鉄道ですが、最初から歓迎されていたわけではありません。軍事力増強を求める兵部省(軍)は特に鉄道建設に反対し、海岸沿いの用地の引き渡しを拒み、旧薩摩藩邸のあった高輪付近では測量さえ許可しませんでした。

陸地を使わせてもらえなかった鉄道は、やむを得ず沖合50メートルほど先に築堤を築き、その上に線路を敷設することになったのです。

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右が新橋、左が品川。海上を横切る赤い線が線路。
※新橋横浜間鉄道之図 国立公文書館デジタルアーカイブ(請求番号 附A00005100)

線路をくぐって漁に

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線路脇の小さな公園は江戸時代の海岸線の痕跡だ

現在の品川駅から田町駅に至る一帯は、かつては徳川将軍家に献上する魚介類が水揚げされた漁師町でした。田町駅から200メートルほど北にある本芝公園は、落語「芝浜」の舞台としても知られる魚市場「芝金杉雑魚場」の跡地です。

東海道線は、この伝統ある漁師町と市場を、海岸線ごと内陸に閉じ込めるように海上に建設されました。このため、漁業を保障するために、線路をくぐって東京湾に出るための水路が設置されました。

明治末頃になると、付近は住宅地、工業地として徐々に埋め立てられていきますが、この船溜まりを拠点とした漁は、1962年に漁業権が放棄されるまで戦後も細々と続きます。

江戸時代の海岸線が残る最後の場所と言われたこの地も、1970年頃についに埋め立てられ、水路は東海道線の線路下を東西に結ぶ歩道に転用されました。

地下鉄泉岳寺駅のすぐ近く、高さ制限1.5メートルの東京一低い道路として知られる高輪架道橋ガード下も、元々は船溜まりと東京湾を結ぶ水路でした。約230メートル続く長いガードの上にはJRの車庫が広がっています。

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高輪架道橋のガード下。タクシーの屋根上の表示灯が衝突したという逸話から「提灯殺し」とも呼ばれる

新駅誕生と消えゆく海の痕跡

線路を海上に通さざるを得なかったことは、新たな鉄道用地を確保するという意味ではむしろ大きなメリットになりました。海を埋め立てて広げた土地に作られたのが、約20ヘクタールの広大な車両基地でした。

現在、そのうち13ヘクタールを再開発し、国際交流拠点とする計画が進んでいます。2019年春には街の玄関口として、山手線に約50年ぶりの新駅が誕生する予定です。

再開発と新駅設置のために、付近の上り方面の線路は約200メートル東側に移設されます。鉄道開業以来、海上を走っていた頃も、陸地を走る現在も同じ場所を走り続けてきた東海道線の線路は、初めてその位置を変えることになるのです。

高輪架道橋も近い将来、作り直す計画があるそうです。これからの10年で、品川に残る海の痕跡は、ますます消えていくかもしれません。

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