運動は嫌いです。それでもプールに通う理由

運動は嫌いです。それでもプールに通う理由
水中はひとりを堪能できる場所(イラスト・古本有美)

運動は嫌いだと答えます

ほぼ毎週末、近所のプールで泳いでいます。こう言うと健康意識の高い人のようですが、全くそんなことはありません。

私は基本的に運動すること、汗をかくことが嫌いです。たまに「何か運動はやってますか」とか「好きなスポーツは?」などと聞かれることがありますが、そのときは「いえ、運動は嫌いなんです」と正直に答えます。すると、その相手はたいてい少し悲しそうな顔になり、「あ、そうなんですね…(しばし沈黙)」とか「スポーツが好きじゃないというのはあるけど、嫌いとまで言い切る人は珍しい」などと答えます。

どうも運動をすることは絶対的に良いことだと見なされているふしがあり、嫌いとでも言おうものなら、落としたゴミを拾わないくらい良くない人間だと思われている気がします。でも、嫌いなものは嫌いなのです。仕方ないではありませんか。

水中では一切の情報から遮断される

そんな私がなぜ毎週泳いでいるのか、もちろん健康のためという大義名分があるものの、それだけだったらこんなに続いているわけがありません。私はかなり汗っかきなので汗をかくのが嫌いなのですが、水泳だとそれを味わわなくて良いというのが1つの理由です。

そしてもう1つの大きな理由は、水中ではひとりきりになれるからなのです。しかも、スマートフォンやパソコン、ましてや本なども持たない文字通り裸一貫の状態ですから、余計なものが一切ありません。水中をかき分けながら物思いにふけっていると、日常で忘れていたことを考えたり、ぼんやりと考えていたことがふいに整理されたりするのです。まあ、今夜の晩ご飯の献立を考えていることもありますが。

外界から遮断されて己と向き合うと言うと大げさかもしれませんが、特にスマートフォンの台頭により、いつでもどこでも情報を摂取してしまう環境の下では、意図的に外部からのインプットを遮断することも必要だと感じています。人によってはそれがジョギングだったりヨガだったり、はたまた座禅だったりするのかもしれませんが、私にとっては近所のプールがちょうど良い居場所となったわけです。

うさぎは寂しすぎると死んでしまうといいますが(本当かどうかわかりません)、私はひとりになる時間がないと死んでしまうと思っています。土日は家族がいるためひとりになる時間がりづらいのですが、なるべく自然なかたちでひとりの時をつくろうと努めており、そこで編み出したのがこのプール通いなのです。

これなら妻にも怪しまれることもなく、それどころか感心なことだとさえ思われているわけです。もちろんプールに行くふりをして酒を飲んでいるわけではなく、前述の通りちゃんと泳いでいるので何もやましいことはありません。

公園のベンチでひとり思索にふける

もう1つ、毎週プールにいそいそと通うことには理由があります。

プールのある場所はわりと大きめの総合公園なので、たくさんの木々や広場があって、ベンチもたくさんあります。ひとしきり泳いだあとに公園のベンチにたたずんで、紙コップのコーヒーを飲みながら、本を読んだり文章を綴ったりするのが至福のひとときなのです。

場所柄、幼い子供を連れたファミリーか、散歩をするご年配の方がほとんどの中、おっさんがひとり公園のベンチでキーボードを叩く姿は、だいぶ異様な光景かもしれないのですが、そんなことはもはや気にしてはいけないのです。

私にとって、これはひとりで思索にふけることのできる貴重な時間です。時間帯によってはスマホアプリのradikoでラジオも聴いています。たいていイヤホンを忘れているので、そのまま音を出して聴きます。昔よく公園でポータブルラジオをぶら下げつつ大音量で鳴らしている謎のおっさんがいたものですが、自分も彼らに近づきつつあるのだなと感慨もひとしおです。歳をとるのも悪くないものです。

水泳のほどよい疲労感もあいまって妙に集中力が高まるので、ついつい長居してしまいます。プールは30分もたたずにリタイヤするくせに、公園での執筆作業は1時間に及ぶこともたびたびです。さすがにこれ以上長くなると妻に怪しまれるので、そこそこに切り上げて帰路に就くのですが、それがなければ2時間くらいは集中できそうです。

このように、ひとり思索にふける時間をいかに確保するかは極めて重要なことだと感じます。スマートフォンの影響もあって、暇さえあれば塵を集めるようなインプットに興じがちな昨今、ひとり静かに己の声に耳をすませる時を持つことは、意識しないとなかなかできないことです。この文章を書いている間も、通行人の何人かに訝(いぶか)しげな視線を向けられましたが、そんなことなど気にしてはいけないのです。

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