震災を機に新聞記者を辞めてバー経営者へ「お金以外のストレスはなくなった」

熊本の繁華街の近く、人通りの少ない路地にあるバー「69spirits(ロックスピリッツ)」。お店の売りは、熊本県南部の人吉球磨(ひとよしくま)地域でとれた米と水で作られる「球磨焼酎」です。店長は、元熊本日日新聞記者の星原克也さん(49)。朝まで働くこともある新聞社の仕事を辞め、自分の裁量で働けるフリーランスに。元同僚からは「顔が優しくなった」と言われているそうです。

熊本城から歩いて10分ほど。繁華街の地下の入り口に見落としそうな小さな看板が見えます。古いビルの階段を降りると、外観とは変わって明るく、バーと言うよりはきれいなカフェの雰囲気。しかし、壁一面の焼酎の瓶が圧倒します。そこで、にっこり迎えてくれるのが店長の星原さん。「会社を辞めたことは後悔することはないですね。決断してよかった」。オープンから1年がたとうとしています。

子どもといる時間より、大事な仕事ってあるのかな

新聞社を辞める転機となったのは、2016年4月の熊本地震。何度も余震が続くなか、最大震度7を記録した「本震」の日は、星原さんの誕生日でもありました。

星原さんの当時の仕事は紙面の編集者。記者が書いた原稿を紙面のどこに載せるのかを判断したり、見出しをつけたりする部署でした。仕事が終わるのは、深夜0時過ぎ。帰宅途中の車が大きく揺れ、街全体が停電したといいます。「会社に戻った方がいいだろうな」。新聞社では震災や大事件が起きた際は、会社に戻るルール。現場に駆けつけたり、号外発行の準備をしたりするためです。

号外を発行し、仕事が終わったころにはもう昼前になっていました。その後も余震が何度も続いたこともあり、会社に泊まり込む日もありました。妻の実家に避難していた子どもたちには、10日間、会うことはできませんでした。

「いつ帰ってくるの?」

そんな時、子どもからの一本の電話が退職への大きなきっかけになったといいます。「完全に吹っ切れましたね。子どもといる時間より、大事な仕事ってあるのかなと。元から、定年まで働くつもりはなかったので、じゃあいつやめるのかって考えると、このタイミングなのかなと思いました」

熊本市内でバー「69spirits」を経営する星原克也さん

退職の条件は「食いっぱぐれないこと」

新聞社をやめた後にやることは決まっていました。「もとからお酒が大好きなので、バーをやりたかった」。最初は大好きなウイスキーのお店にしようかと考えましたが、断念しました。「ウイスキーのお店ならたくさんありますしね。なにより、スコットランドの言葉がわからないから、作り手の思いを知ることができない。自分がわからないものを売りたくないな、と思っていたので」

そこでひらめいたのが、球磨焼酎でした。20代の頃、川辺川ダム建設問題を取材した時に通っていたのが、「熊本県の秘境」と呼ばれる人吉球磨地域。そこには球磨焼酎の蔵元があり、仕事帰りに米焼酎をよく飲んでいたことを思い出しました。

球磨焼酎の全蔵元の小瓶がそろっている

星原さんの住む熊本市内から車で1時間半。「蔵の数も28個。同じ日本語だし、方言もわかるし。思いもしっかり聞くことができる。20年以上、人の話を聞く仕事をしてきたんで、それが役に立ちました」

職人の話を聞けば聞くほど、球磨焼酎に興味がわきました。「熊本がよそに誇れるお酒。知られていないのはもったいない、知ってもらいたいという記者としての使命感に近い思いがむくむくわいてきました」

妻に、退職のことを話すと「どうせもう決めてるんでしょ」。出された条件はただ一つ。「食いっぱぐれないようにしてね」ということでした。

テーブル席・カウンター席あわせて15席の店内

「数十万部の読者を相手にしている時より、気は楽です」

熊本地震から9カ月後になる2017年1月31日に退職。「お酒の管理をしやすい地下がいいなあ」と考えていた店舗はスムーズに決まり、4カ月後にオープンしました。

お店には、元同僚や取材相手も集います。「会社のことが嫌いでやめたわけじゃないので、応援してくれている人も多いですね。男女比率、お客さんの単価、人数……開店前から細かく想定していましたが、想定通りのスタートがきれたかなと思っています」

サラリーマンからフリーランスになり、「お金以外のストレスが一切なくなった」。新聞記者時代にあった「記事の訂正をだしたらどうしよう」などの漠然とした不安がなくなったそうです。

「今できること、やらなきゃいけないことは、とってもシンプル。この15席に座るお客さんに気持ちよくお酒を飲んでもらうこと、だけ。以前の数十万部の読者を相手にしている時より、気は楽ですよね」。フリーになって変わったことといえば、病院に行くようになったこと。「病気になって休んだら、お給料ゼロだからね」

最近は、新しい球磨焼酎の飲み方を研究しているそうです。「かつお節でだしをとったもので割った焼酎を飲んだけど、すごくおいしかった。煮干しや果物でやったらどうなるのかな~って。風変わりなものでも試していきたい。『半年でつぶれる』と言われたけど、なんとかなっている。飽きられないように工夫していかないと」

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